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ポスト・モダン

 様式の母は妄想である。妄想に様式を孕ませる種となるべき父は、勿論自然である。
 話は極めて簡単である。ポスト・モダンで装飾をどう復活させるかということになったら、そこにもどるしかない。
 ブラジリアにはなんにもなかったから、そこには未来都市が出来上がったのである。
 別にブラジリアになんにもなかったわけでもないだろう。意味もなく生い茂る自然というのは、確かにそこにあった筈である。あった筈であるが、それを「なんにもない!」と作る人間が規定してしまったから、ブラジリアは”なんにもない土地”の上に未来世紀が乗っかったのである。
 あるものをないことにしてしまう力を”理念”という。という訳で、理念の突き進むところ、人工という名の無が広がるというだけである。
 アントニオ・ガウディの建築を支える様式は、明らかに妄想である。妄想と言う母が妄想という様式を生んだという単性生殖がアントニオ・ガウディということになると言ったら、それは勿論間違いだろう。ガウディの様式の母である妄想に”ガウディ様式”という子を孕ませた父は、実は自然ではなく、自然というものにほぼ近い、歴史という名の”人為”である。という訳で、ガウディの妄想は”妄想様式”を生み出したのである。
 人工と人為はどう違うのかというと面倒臭そうだが、実は簡単である。それを達成させた人間の理念の、純度の差である。人工に於ける理念の達成率は90%を超えるが、人為では精々行って、70%である。そこら辺を”ほどのよさ”という。
 さて、人為は妄想に働きかけて様式を生むが、人工は様式を生まない。人工は、常に不能者であるから、人工が妄想に働きかけた時、様式は生まれずにコンプレックスが生まれる。
 という訳で、ポスト・モダンを提唱しなければならない現代建築というものは、人心に悪影響を及ぼすほど不毛なのである。
 ここまでで明らかなように、ポスト・モダンが何故困難かというと、妄想に働きかける父親が不能だからであるが、それならば一体、どうしてアントニオ・ガウディのみに様式が可能なのか、ということである。
 人間の大きさということは勿論あるだろうが、それよりももっと重要なのは、妄想に働きかけた父親であるところの”歴史”の性質である。”歴史”なんかどこの国にだってあるのにどうしてガウディ一人が?ということだってあるのである。
 早い話が、スペインというのは、とうに歴史が終わっている国なのである。だから、ガウディという人間はさっさとその歴史を妄想と交合させてしまえたのである。
 という訳で、ガウディの建築が完成した時、スペインという国は改めて、そこから歴史をスタートさせることが出来るのである。自然と”願望”の結合の子である”様式”というものには、それだけの力があるのである。
 ポスト・モダンがつまらないのは、歴史の一部だけをつかまえて来て人工授精なんかをしているからである。子供にとって一番迷惑なものは、理想主義に燃えた”お兄ちゃん”の作ってくれる子供の国だということを知るべきである。不能者の設計する楽園は、更に手のこんだ不能者しか作らない。
 本気でポスト・モダンを考えるのなら、そこに生えているペンペン草に、まず話を聞いてみるべきなのである。

(橋本治「現代建築学」『デビッド100コラム』冬樹社)


| 大森日記 | 07:57 | comments(1) | -
コメント
台湾に伍角船板という、ガウディを換骨奪胎したようなレストランがありますが、あれなどはポストモダンのあるべき装飾の好例ということになるのでしょうか…
| hy | 2015/03/08 8:48 PM |
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